サッカー(ヴェルディ)以外の日常を綴ります。
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Sun
2012.06.24
12:27
 
img_2248.jpg

長きに渡る日本経済の低迷は、
政党や政策によるものではなく、
明治時代のまま推移し続けている既存の体制によるものではないのか。
府政と市政が混在する二重行政が問題視されている現状の大阪府を改編し公務員改革を断行する。
今話題の大阪都構想が如何なる事かを、
元大阪府知事・現大阪市長の橋下徹が語りつくす一冊。
知っているようで知らなかった大阪都構想、
あるいは大阪維新の会の基本方針。
そして橋下氏の考えるヴィジョンが分かりやすく書かれている。
堺屋太一氏との対談も。


珍しく政治ものである。
もともと橋下という人間は、
テレビなどで見かける軽薄なタレント弁護士でしかなかった。
府知事に立候補した時も、
東国原元宮崎県の二番煎じ感は否めなかった。
就任当時の彼の発言に関しても、
パフォーマンスとしてしか受け止められていなかった様に思う。
それが今やどうか?
府民に留まらず、
日本全土に支持層を拡大。
同氏の人気を各政党がこぞって利用しようとしているのは明白だ。
どうしてここまで存在感を獲得するに至ったのか。
それが知りたくなったので読ませて頂いた。
初めに断わっておくが、
自分は右でも左でもなく、
どこの政党にも肩入れしない無党派層。
政治から遠い種の人間である。


そもそも大阪都構想とは何なのか?
正確に把握している人間がどれくらいいるのか?
非常に怪しいと僕は睨んでいる。
字面から東京への対抗心だとか思っている関東の人間もいるかもしれない。
橋下氏や大阪維新の会を賞賛するにせよコキ落とすにせよ、
まず彼らの考える骨子を理解するのが先であるとは考えている。
大阪都構想の背景にある大きな考え方として、
どんなに優れた政策を施行しようとも、
施行する組織の体制がしっかりと構築出来ていなくては、
未来的な繁栄は成し得ないとしている。
同氏は現状の中央集権型体制を厳しく批判する。
現在の日本の政策・行政は、
すべてが永田町と霞ヶ関がコントロールする構造となっている。
デフレ経済やGDPの低下、
借金の増加や高齢化社会など…。
多種多様な問題をすべて中央が抱えるのはおかしいという。
本来であれば複雑な現代社会ゆえに、
地方ごとに細かな対策が必要。
国が画一的に決めた対策を全国が揃ってならった所で、
各地方に適した方法とは限らなくなりいずれ行き詰ると指摘している。
橋下氏が考える前提は、
役割分担を明確にした上で、
権利と責任を課すべきという事なのだ。
そういった意味で『地方分権』の考え方を推奨し、
国は国がすべき国全体の意思決定に従事すべきであり、
地方がすべき決定事項は地方に委譲すべきと唱えているのだ。


その縮図とも言えるのが本題である、
現状の大阪府と大阪市の二重行政である。
「府市あわせ(ふしあわせ)」と呼ばれる現象は、
大阪府の中に大阪市という独立した意思決定組織が存在している事。
それゆえにひとつのエリアの中に同様の施設が、
市と府2つも乱立していたり、
あるいは府全体の政策が施行されようにも、
市内だけは市独自の意思決定を持つがために、
それだけが切り離されてしまっているのだ。
大阪都構想は一度現状の体制を壊し、
改めて再構築する考え方である。

大阪府庁も大阪市庁も解体して、
新たな大阪都庁にする。
そして大阪市内にある二十四区は中核市並みの権限と財源を持つ八区ほどの特別自治区に再編する、
そして周辺市にも中核市並みの権限と財源を移譲するというものです。
都は大阪全体の成長戦略や景気対策・雇用対策・インフラ整備などの広域行政を行い、
特別自治区は基礎自治体として、
教育や医療・福祉といった住民サービスを受け持つことになります。


要するに簡単にいってしまえば、
適材適所で責任と分担をすべきだと言っているだけなのである。
ここぞっていう大きな案件にはトップが判断するけれども、
きめ細かな案件は日頃から肌で感じている現場が判断してよねって事。
大阪府はそれが極めて曖昧であったのである。
本で書かれている内容はひとつ。
まず組織体制を変えましょうよ。
そのひと事に尽きるのである。


はっきり言って細かな事例はあれど、
大枠では現状の体性を変えるべきという主張が目立つ。
そういった地方分権さらには県内での体制改善をする事で、
世界レベルの都市間競争に打ち勝つのだと唱えている。
まずは大阪から変えるのだ。
そのビジョンは明確であり、
思った以上に正当性もあった。
考えてみればいくつもの政党が変わり、
いくつもの政策が掲げられてきたけれども、
一向に景気改善が成し遂げられていないのは本当である。
いやいや、
そもそも組織としての在り方が時代遅れなんだよ。
トップが全部決めるのではなく、
細かな部分は各々の部署で考えましょうよ。
なんだがビジネス論にも当てはまりそうだ。
なるほど橋下氏。
全うな事を分かりやすく唱える。
人気が出るわけだ。
まぁ。
本音は知らないけれど…。
ちなみに元大阪市長をネチネチと批判する場面と、
堺屋太一の部分は正直いらなかった。



 
Category * BOOK
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Tue
2012.06.12
17:34
 
電車


今回は『仕事』をテーマにお話をしよう。
たまには真面目っぽく偽装するのが僕の常套手段だ。
特段何かしらの効果を促すような事はないのけど…。
さて。
誰かへ自分なりの仕事の位置づけを伝える際に、
僕がよく使う言葉がある。
『仕事は生活(人生)の手段であって、
生活(人生)そのものであってはならない。』

…である。
まぁ当然であると言えば当然。
しかしそれがなかなか守られないのも否定できないだろう。
職種によって差はあれど、
概ね1日の活動の中で仕事に割かれる割合は多い。
さらに週5日の勤務が平均値である。
もともと仕事をしている時間は多いのだ。
職場の仲間とは毎日顔を合わせるし、
そもそも生活習慣も仕事のルーティーンによって決まっていく。
いきなり発言を否定する様であるが、
仕事が日常生活へもたらす影響力は相当高いのである。


ではだからと言って、
人生そのものを仕事に捧げる気は個人的に一切ない。
ともすれば仕事で染まってしまいそうな日常を、
僕は常に自分色へと手繰り寄せようとしている。
少したとえ話をしてみよう。
生活(人生)は旅行だ。
一方で仕事は交通手段。
どんな乗り物に乗るかが職種といった具合だ。
飛行機や鉄道は、
その名の通り旅行をするための交通の手段である。
旅をするために乗り物に乗るのであって、
乗り物に乗るのが目的ではない(多くの場合は)。
イタリア旅行を企画しているのにも関わらず、
航空会社をどこにするに注力するのは、
何だか違和感があるだろう。
それと同様に仕事に注力しすぎてしまい、
生きるうえで必要な様々な物事を御座なりにしてしまうのは、
本末転倒とは言えないだろうか。


しかしながら現実の仕事となると、
飛行機会社云々とは異なる部分もある。
前述でも指摘した様に、
多くの人にとって仕事は、
旅行で利用する乗り物よりも身近な習慣であるからだ。
加えて上手く職場と相性が合えば大きな意義も生まれる。
仕事に邁進する事で社会人としての博識を深めるかもしれない。
職種やその人のポリシーによっては、
仕事こそ目指すべき人生の中心という場合だってある。
以上の事からも、
仕事が僕らに与えてくれる事は計り知れないのは理解出来ている。
仕事が生活の優先順位の最上位となるのは悪い事とは限らない。


それでも個人的な考え方としては、
やはり仕事は手段なのである。
僕には自分自身が気づいていない何かを含めて、
他にすべき事が沢山ある。
例えば最近であればランニング。
みなさんご存知の様にヴェルディ。
そしてまだ見ぬ未来の家族との時間。
そういった僕の大切な生き甲斐を、
仕事が奪ってしまっては駄目なのである。
だってそういった生き甲斐を愉しむために、
仕事をしてお金を得ているんだから。
でも残念ながら、
この事を理解出来るにせよ、
実践が出来ていなかったりする。
大切な時間を作り出すために仕事をしているつもりが、
いつのまにか仕事に忙殺されて大切な時間を失ってしまう。
理由は前述の通り。
だからそうならないために、
僕はたまに大きく深呼吸する。
それから今本当にしたい事を真剣に考える。
そうすると不思議と仕事も何だか有意義で楽しくなったくるんだな。
もし今の仕事が、
本当にしたい事を妨げるとするならば、
遅かれ早かれララバイすべきだ。
仕事で病むなんて勿体無い。
そんな事を思う今日この頃でした。 
Category * BOOK
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Mon
2012.06.11
17:29
 
乳頭温泉


旅行へ出かけた。
お決まりの旅行記を書いても芸がないから、
今回はタイトル通り、
「旅の記憶」をテーマに話そうと思う。
またまた実のない話になるだろう。
事前に断っておく。
それで許される訳ではないだろうけど。


旅した場所は秋田県乳頭温泉郷。
高校の山岳部以来、
実に15年ぶりに訪れた。
山間を慣れないドライブ。
昔訪れた時は、
たぶん徒歩だったか。
最初はそれくらいの記憶しかなく、
当時の事は朧げにしか憶えていなかった。
もう忘れた。
そう思い込んでいた。
ところが実際に現場へと足を踏み入れると、
忘れたはずの記憶が蘇るのだから不思議である。
もちろん多くは他愛もない内容だ。
思い出したとて、
とりたてて語るまでもない。
この川を見たことあるなとか、
あいつとあいつがここで喧嘩したんだっけとか、
その程度である。
でも大切なのは思い出した内容ではない。
蘇った記憶が意外と鮮度を保っていた事に僕は驚いたのだ。
それはまるで記憶を保管する大きな蔵に、
長い間大切にしまわれていた様。
あるいは旧友と再会したみたいな、
なんだか特別な再会に思えた。
「旅の記憶」。
僕は今その事について考えている。


ひなびた温泉宿に佇み、
高校時代の記憶と再会して思った。
旅路とは、
旅を終えた後にも続いているのではないのかと。
こうやって15年ぶりに旅の記憶が戻り、
初めて気づくのである。
些細な思い出ではあったけれど、
それは15年経った今でも確かに旅の匂いがしていた。


つまりは各々の記憶の蔵に、
旅の想い出は保管されているのだろう。
それは普段は影を潜めていて、
ふとした時に表面に現れるのだ。
旅特有の匂いを伴って。
だとするならば、
僕と一緒に旅した人の記憶の蔵には、
少なからず僕に関する事がしまわれるのではないか。
わざわざ東北の山奥で僕は、
いったい何を考えているのだろう。
それでも急に振り出した雨を避ける術がないのと同じ様に、
そんな夢想から離れる事が出来なくなった。


考えてしまった。
いま旅を共にしている人の中には、
今日の僕が記憶されるのだと。
想像してしまった。
時が経ち何かのキッカケで当人が今日を思い出した時、
記憶の中の僕がひどく情けなかったらどうしよう。
…それは避けたい。
身近な人ならより一層避けたい。
不安定なiPhoneの電波状況を眺める。
どんよりした灰色の雲が僕を覆う。
よくよく思い返してみると、
昔から他人の視線を気にするタイプであった。
僕は女々しい人間なのだ。
しかし言い訳をするならば、
時を経ても残酷なまでに美しく鮮度を保っている旅の記憶が、
僕を執拗に女々しくしているのかもしれない。


相変わらず雨は降ったり止んだりを繰り返している。
東北も梅雨入りをしたのだろうか。
ちょっとやそっとで運転技術が向上する訳もなく、
それでいて僕は僕自身を装う術を知らない。
旅の最中だからなおの事。
僕は15年ぶり訪れた乳頭温泉郷で、
高校時代の記憶を呼び覚ました。
もしかしたら同じように、
15年前の裸の僕を高校時代の仲間が思い出すかもしれない。
その時の僕は、
たいそう情けなくて間抜けである可能性も否定できない。
やっぱりそれは恥ずかしい。
でも僕は救いを見つけた。
僕は今でも高校時代の部員と会い続けている。
会い続けているうちは、
あの日の僕を僕は覆せる。
会い続けているうちは、
変わった僕を見せる事が出来る。
救いは会い続けて変われる事。
そして…
変わったのならば、
また旅に誘うまでだ。
はぁ。。。
変な事を考えた。
どこまで伝わるのやら。


さて。
今回は雨の多い旅だった。
でも不快には思わなかった。
いつかまた思い出したい記憶になったから。 
Category * 小話
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Mon
2012.06.11
16:59
 
そこのみにて光輝く


夏の函館。
ニートの達夫は、
パチンコ屋で間抜けなチンピラ拓児と出会う。
きっかけはライターは貸してあげた事。
ただそれだけだ。
拓児は両親と姉の4人で、
今なお廃墟のようなバラックに住んでいた。
痴呆で廃人と化した父親は皮肉にも性欲だけを残し、
母親はその欲望を受け入れる。
姉は体を売ることも厭わないホステスとして一家を経済面で支え、
当の拓児は山から勝手に抜いてきた高山植物を売っている。
もちろん金になんてなりやしない。
そんな底辺の家族と出会い、
達夫は次第にそこへと導かれていく。
そこへと導いたのは拓児の姉の千夏。
彼女と泳ぎ体を交えた日から、
達夫の苦しくも美しい時が流れ出す。
若くして命を落とした作家・佐藤康志の幻の名作。


佐藤康志は、
41歳の若さで生涯を自ら閉じた孤高の作家である。
5度の芥川賞候補になりながら一度も受賞する事がなかったのでも有名だ。
個人的に気だるい夏の青春劇を書かせたら右に出る人はいないと思う。
特に泳ぐというセンテンスと青春群像を重ね合わせた手法は、
佐藤作品でよく見られる。
本書もそうだ。
プールと海が実に印象的に描かれている。
個人的には特に業績不振の造船所に嫌気が差し退社した達夫が、
拓児の姉である千夏に初めて出会ったシーンが記憶に残ったので紹介したい。
達夫が偶然出会った拓児の家についていく場面から物語は始まる。
海鳴りが酷い函館の町。
開発から取り残されたバラックに住む拓児の姉千夏と、
その時初めて出会った。
年齢を感じさせる体型と、
それ以上に疲労を漂わせる女の匂い。
彼女の作るチャーハンは、
とにかく官能的だ。
すると、
なぜか千夏は帰る達夫を追ってきた。
そして2人で今から禁止区域の海で泳ごうと約束するのである。
その日は結局気まぐれな達夫が、
千夏を置いて勝手に帰ってしまうのだが、
その時から千夏の事を達夫は忘れられなくなってしまう。
我慢できずに拓児のバラックに海パン一枚で行ってしまうのは、
ちょっと滑稽でもありまた達夫の変化を如実に表している。
そして早くも2人は海辺で結ばれてるのであるが、
海を背に行われて2人の行為は、
とても情熱的であり感傷的であり、
なにより儚さを孕んでいる。
時代に取り残され無気力な若者の、
ぶつけどころのない欲望が重なりあった様にも思えた。


達夫は経営不振の仕事場に嫌気が差し退社。
定職もつかずにブラブラする完璧なニートだ。
おおよそ将来の夢を持つ事など忘れていまっていた。
一方の千夏は、
体を売ることもある底辺のホステス。
彼女も自分自身の夢やプライドは諦め、
まさに身を削って生活してきたのだ。
そんな夢を見失った2人は、
偶然にも出会い必然的に惹かれあい、
そして隠されていた情熱を再び照らし始めるのである。
お互いが結びつく事で初めて光り輝く。
タイトルの意味は、
きっとそんな所だろう。


いまさらではあるが本作は2部構成になっている。
1部は達夫と千夏が出会う話だ。
そして2部は、
2人が結婚してからの話である。
2部では奔放だった2人が、
いきなり平穏な生活の中に生きている。
子供を設け達夫も普通に仕事をこなす。
諦めていたはずの日常を手にしているのだ。
そんな中でひとり変わらない人間がいる。
千夏の弟拓児だ。
彼を一言でいうなら飾らない馬鹿。
山で採取した高山植物を売るなんていう馬鹿げた商売を馬鹿正直にしているのだ。
しかも売るより育てる方が好きなんていう柄でもなくカワイイ面もある。
祭りが好きでテキヤみたいな格好の荒くれモノ、
でも実は家族思いだし友人思いだし超良い奴。
姪っ子へ幼児向けの雑誌をプレゼントし破顔する。
その憎めなさは半端ない。
物語を通して拓児の存在は非常に大きなウエイトを占めているのだが、
2部では特にその色合いが大きくなった様に思う。
彼はある男を達夫に紹介する。
サウナで出会った中古車を売ってくれるというサングラスの男である。
その男が、
また平穏だった日常に新たな情熱をもたらして行くのだ。
新たな希望といっても良い。
それが何かは読んで知ってくれれば良い。
いずれにせよ達夫と千夏、
少しだけ距離をおいて拓児の3人が織り成す物語は、
北海道の地を舞台に実に美しく書かれている。
佐藤泰志らしい作品だった。
ますますファンになってしまった。 
Category * BOOK
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Thu
2012.06.07
15:11
 
青い壷


亡き父親の後を継いで陶芸家となった省造。
彼が偶然にも焼き上げた、
ひとつの美しい青磁。
自分でも驚く程の美しさに感嘆する。
しかし青磁を目敏く見つけた道具屋は、
古色をつけろと言う。
たった今焼き上げたばかりの美しい青磁に細工をするという、
容赦ない要望に狼狽する省造。
そんな省造を見兼ねた妻は、
独断で青磁を百貨店に売り渡してしまったのだ。
青磁を購入したのは退職したばかりの初老の夫婦。
夫の勤めていた会社の上司への贈り物だ。
青磁は老夫婦から上司の妻へ、
上司の妻からその友人へ、
様々な人間の手へと渡っていく。
青磁を通して人間模様が浮き彫りになる、
美しくも残酷な物語。
故有吉佐和子の名作。


この本で書かれているのは、
主に人間の卑しい部分である。
陶芸家の美に対する葛藤から物語はスタートし、
引退した男の悲しき現実、
老いと介護の難しさ見栄や嫉妬など、
私達の周りにあるありふれた卑しさが満載であるのだ。
それでいて苦痛でないのが不思議である。
あたかも青磁を通して、
様々な人々の生き様を覗いている様である。
人生なんてものは美しい事ばかりでなく、
むしろ泥臭い場面ばかりだ。
そんな生き方を実直に書いているからこそ、
人間らしさが醸し出され嫌味に感じないのかもしれない。
有吉佐和子は実にそういった人間ドラマを書くのが巧い。
特別な派手さはないのだが、
グイグイと引き込まれる魅力がある。


物語は13話の連続短編集だ。
時代背景はちょうど高度成長期。
戦後を脱却し、
国民全体が先進国としての自覚を持ち始めた時代だ。
第7話と第8話をご紹介しよう。
自宅に青磁を見つけた姑の春恵。
それを見て彼女は戦前戦中の亡き夫との想いでに浸る。
豪華絢爛で贅沢の極みの生活であった日々、
そんな幸せな日々を戦争が奪っていった。
国民誰しもが貧困に窮する中、
姑とその夫は、
贅沢する心だけは失わなかった。
貧しい食材を駆使してフレンチ料理を食べるふりをしたのである。
話の中に出てくるホロホロ鳥という珍しい鳥の料理は、
その象徴と言えよう。
ちょっと鼻につくインテリで高飛車な老婆の言葉であったが、
やはり嫌味は無く、
むしろ愚直にも生き抜く人間のたくましさを知るのであった。

「人間には贅沢というものが必要なんだ。
(中略)味覚というのは、
教養だからね。」


春恵の夫が語った上の言葉が印象的である。
戦時中にでも人としての欲を失わない大切さ。
フレンチがどうこうでなく、
単純に心まで貧しくなってはならないという意志が伝わってきた。
ちなみにフレンチの晩餐ごっこをした日、
隠しておいた舶来の高級食器に紛れて、
美しい青磁が飾られていたらしい。
老婆は今目の前にある青磁を見て、
戦火の日に起こった夫とのロマンチックな夜を思い出したのだ。


さて、
そんな姑の話を義理の娘である厚子はどういった気持ちで聞いていたのだろう。
直接に書かれている訳ではないが、
嫉妬という気持ちがきっとあったはずだ。
医者の妻という比較的に恵まれた環境ながらにして、
やはり戦後の貧しさが染み付いてしまった身。
姑は本心からなのか、
贅沢を知らない厚子を不憫だと馬鹿にする。
欲を知らない世代の厚子は、
ただ話を聞く役ばかりであった。
しかしながら時代が移る。
姑も死去した今、
厚子と夫は老婆が口にした贅沢を手にいれようとするのだ。
戦後を切り抜け、
贅沢が出来るまでに成長した日本。
「人間には贅沢というものが必要なんだ。」
という言葉を実践しに厚子は夫に誘われディナーへと出向く。
芝の増上寺前にあるフランス料理店。
そこで2人は、
本物のホロホロ鳥を食すのである。
日本人が欲を取り戻す姿にも見えたエピソード。
厚子と夫は帰り際に、
こんな会話をする。

外へ出ると、
前に木立ちの繁みがあった。
食後の散歩のように、
しばらく二人で歩きまわった。
「ねえ、
あなた」
「うん」
「三年に一度くらい、
こういうことをしてくださらない。」
夫はしばらく茫然としていたようであった。
それから苦笑して言った。
「君は欲のない女だな。
僕は、
一年に一度はこういうことをしようかと思っていたところだよ」
「でも私、
お値段を見てしまったんですもの。
そんなこと言えないわ、
とても」
「おふくろに笑われるよ、
貧乏性だって」
「さんざん言われていたんですからね、
平気だわ」


この会話には飾らない欲と、
日本人の慎ましさが見事に表現されている。
僕はこの章が一番好きだ。
最後夫婦がなぜ青磁を手放すかは、
是非読んで知って欲しい。
ちなみにであるが、
夫婦が訪れた芝のフレンチ。
恐らく実在する。
時代背景や佇まいを考えると、
恐らくクレッセントというお店。
フレンチの名店である。
ホロホロ鳥があるかは問い合わせてみようか。
いずれにせよ、
とても行ってみたくなった。


THE CRESCENT
http://www.restaurantcrescent.com/#/top/


13話のエピソードは、
その他にも今も色あせない人間ドラマが書かれている。
ドライな結婚観には思わず笑ってしまうし、
老人達の同窓会も滑稽だ。
欲を題材にした7話と8話も同じ。
自然体の人間感情が描かれているから面白いのだ。
ただひとつ青磁だけは美しく描かれている。
その物の価値は様々だけれども、
美しさは変わらない。
青い壷だけは美しいままなのだ。 
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