サッカー(ヴェルディ)以外の日常を綴ります。
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Sun
2012.05.27
20:36
 



9.11。
パパは、
あのありえない日に死んだ。
それからというもの、
僕の靴は重くなるし、
どうしてもまたアザを作ってしまう。
おばあちゃんは好きだけど、
パパがいないなんて。
ママはなんでパパでない人といるんだ!?
ある日、
パパの遺品がしまってある物置に、
見知らぬ鍵を見つける。
"なんぞ?"
謎の鍵は家のどの扉にも合わない。
この鍵はなんぞ!?
鍵の入っていた封筒には、
赤い文字でブラックと書かれている。
普通、
人はブラックと言う字は黒いペンで書くらしい。
赤い文字なら赤いペンで。
つまりパパが書いた文字は

色の事ではなく人の名前ではないのだろうか!?
ブラックさんを探し当てれば、
パパの鍵を開ける扉を見つけらろるのではないか!?
アメリカ同時多発テロで父親を失った少年オスカーの、
自分を取り戻すための小さな旅。
果たして謎の鍵の真相は!?


大きな事故や災害、
テロなどが起きた際、
テレビや新聞では必ずと言っていい程、
死者の数をセンセーショナルに伝える。
10人死傷。
100人死亡。
1000人死亡・行方不明多数。
別に数が悲しみの尺度にはならないのだが、
人々はその数に驚くのだ。
貿易センタービルでのテロでは、
2749人が死亡する惨事となった。
多くの被害が出たという意味では、
昨年に起きた東日本大震災がある。
死者は15000人を越え、
いまなお行方不明者は、
3000人以上いる。
これはまさに極端な例ではあるが、
こういった死者の数字を
事態の重大さを測るのに使用しているのは、
確固たる事実だと言えよう。
では僕らは、
そういった死傷者の数で、
その事象の本質を、
どれだけ適切に知り得ているのだろうか。
オスカーは父親を失った。
父親の死は、
2749人のうちの1人に該当する訳であるが、
オスカーのその後気持ちは、
残念ながら報道からでは知りえないだろう。
オスカーだけでなく、
オスカーの母や祖母の苦しみも同様だ。
死者1人の周りには、
その何倍もの人達もの悲しみが存在するのだ。
彼らひとりひとりが、
失った人の死を乗り越えるのは、
本当に大変な事である。
死傷者の数字の背景には、
その何倍もの人達の悲しみがある事を、
僕たちは決して忘れてはいけない。
本書を読むには、
そんな根気が必要である。


まず初めに知っておいて欲しいのだが、
若手作家らしく作品は極めて前衛的だ。
小説に視覚的な工夫を施しており、
より鮮明に登場人物の感情や、
おかれた状況など表現している。
個人的に言えば、
小説というジャンルの範疇を越えていると思うし、
見方によっては反則技とも思われるかもしれない。
がしかし、
この工夫こそが作者の熱意であると徐々に気づくはずだ。
単なる新しいスタイルを好むクリエーターではない。


物語は、
死んだ父親が残した鍵の扉を探す少年の冒険と、
父親の両親であり少年にとっては祖父母の、
戦争に翻弄された半生を振り返るという2つの軸で成り立つ。
祖父母のパートは、
主に自分の息子と孫にあてた手紙の形式だ。
どうして2人が結ばれたのか、
どうして祖父は声を失ったのか、
そしてなぜ祖父は姿を消したのか…。
第二次世界大戦のドレスデン爆撃という惨事が、
数奇な人生の中心にあるのが、
最終日には同時多発テロの惨事へと導かれていく。
この流れは必読だ。
独特の文体で最初はとっつきにくいが、
最後はすっと落ち着く結末が待っている。


変わって、
オスカーのパートだ。
オスカーはませた子供だ。
父親の影響で難しい言葉を使いたがる。
天文学者のスティーブホーキンスを尊敬し、
彼へファンレターを送っている。
そんな早熟な彼は、
父親を失い、
地下鉄や高層ビルに怯え、
自分に"あざを作る"。
彼の心の闇は深い。
その垣間見れる傷が、
すごく悲しい。
ある日、
オスカーは父親のクローゼットで、
花瓶の中に封筒を見つける。
その封筒には赤いインクで、
『ブラック』と書かれ、
さらにその中には、
一本の鍵が入っていた。
この鍵はなんだ?
オスカーは、
鍵にぴったりの錠前を見つけられるのか?
すべては父親に近づきたい一心で。
二度と会うことが出来ない最愛の人とを結ぶ、
文字通り鍵となり、
オスカーはニューヨーク中を駆け巡る。
正直言うが、
僕は何度か泣いた。
これは自分にとっては、
珍しい事だ。
この本で、
僕が感じた感情を共有出来ればと思う。
オスカーが父親の死とどう付き合っていくのか…。
ぜひ読んで欲しい。
お勧めだ。
ちなみに本書はすでに、
トムハンクスとサンドラブロックによって映画化されている。
子役のトーマスホーンの演技が話題の注目作だ。 
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Mon
2012.05.21
17:48
 
DSC_0254.jpg
▲撮影した金環日食。Nikon D90 TAMRON 28-300㎜ PRO ND100000フィルター使用 1/125 F8 ISO Lo1


2012年5月21日 AM7:30。
僕は金環日食の撮影の為、
井の頭公園の広場でカメラを構えている。
周りには日食グラスを手に珍しい太陽を眺める人が数人。
気まぐれな太陽は、
雲の切れ間を行き交いながらも、
どうにかその姿を留めている。
少しずつではあるけれども、
確かに進んでいく日蝕の様子をファインダー越しに眺めながら、
僕は今日という日をいつまで憶えていられるのだろうかと自問している。


金環日食とは大雑把に言うと、
月が太陽の正面を通る事で、
大きなリング状になる現象を指す。
僕自身も後から知ったのだが、
皆既日食では太陽が完全に隠されるのに対し、
金環日食は太陽が完全に隠されることはない。
そのため辺りが極端に暗くなる事もないし、
皆既日食の様に外枠にコロナが出現する事もない。
オレンジ色の指輪の様な円が作られるのが大きな特徴だ。
そしてこれが天文的に非常に稀であり、
日本国内で起こる金環日食としては1987年の沖縄金環日食以来25年ぶりらしい。
さらに次に広範囲で観察できるのは300年後とあって、
メディアを中心に大きな話題を呼んでいるのだ。


ちなみに金環日食は、
その特異な現象から数々の逸話を残している。
1183年。
平氏と木曽源氏が戦った水島の合戦中に金環日食が起こった。
源氏側は欠けていく太陽に恐れをなし混乱したのに対し、
平家は日食が起こることを事前に知っており戦いを有利に進めて勝利したと言い伝えられている。
昔は不安や恐れの対象とされたのが国内外で多く見られるパターンの様だ。
その一方で現代社会では違った見方もされる。
DREAMS COME TRUEの「時間旅行」という楽曲の中で、
次のような歌詞がある。

「指輪をくれる? ひとつだけ 2012年の金環食まで待ってるから そうよ 太陽の指輪」

ご覧のように金環日食を指輪に例えた名曲だ。
ドリカムファンからしてみれば22年前の作品で歌われたエピソードが、
四半世紀近く経ちようやく実現するのである。
恐らく万感の思いなのであろう。
僕の身近にも熱狂的なドリカムファンがいる。
実は金環日食を知ったのもその人物からであった。
歴史的な逸話とドリカムの記念日。
そう考えると良きにつけ悪きにつけ、
金環日食は人々の心を魅了する現象の様に思う。
天文的なイベントというだけでなく、
みな心に寄り添うからこそ個人的にも興味が沸いていた。


さて。
いよいよだ。
部分食から次第に金環食へと導かれていく。
万人が空を見上げる姿は、
詩的にも、
あるいは滑稽にも写る。
今この瞬間、
どれだけの人達が同じ太陽を眺めているのだろうか。
…その時が来ると、
周りから感嘆の声が漏れ始めた。
そして若いカップルも親子も、
僕に絡んできたうるさいおじいさんまでも一様に黙りこくる。
僕はと言えば、
ひとりでやはり黙る。
おおよそ5分くらいであろうか。
国民が見守る中で、
世紀の天体ショーは静かに終わった。


金環日食。
僕の感想を言おう。
それは限りなく金の“輪っか”であった。
僕にとっては、
不安を駆られる不気味な現象でもなく、
大空に輝くロマンチックなエンゲージリングにも成りえなかった。
それこそ無機的に、
“金の輪っか”は“金の輪っか”以上の意味を持たなかったのである。
だからこそ余計に思う。
僕は2012年5月21日を永遠に記憶に留めておけるであろうか。
頭上に輝く大きな金の輪と同様に、
僕の心に霞む今の想いすらも忘れてしまう日が来るのであろうか。
それって何だか寂しくないか!?
だから…。
僕は今日という日を写真に残す。
“金の輪っか”と“今の僕”を写真に焼き付ける。
 
テーマ * 日記 ジャンル * 日記
Category * 小話
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Sat
2012.05.12
21:00
 



これから長々と綴る駄文は、
すべて村上春樹氏の『走ることについて語るときに僕の語ること』を読み終えて、
自分なり走る事を考えた文章である。
普段の書評とは異なるが、
あくまでしみったれたランナー村上春樹のしわざであるのは、
覚えておいて頂きたい。


僕は今走っている。
やたらめったら公言しているので、
もう知っているよと言われるかもしれないが、
だいたい1年くらい前から走っている。
ここ数週間に限って言えば、
目前のレースに向けて走っている。
三浦しをんの小説に鼓舞されて走っているし、
村上春樹のメモアールに触発されてもやはり走っている。
なぜ走っているかと問われても上手くは説明できないが、
きっとたぶん走りたいから走っている。


走る事で何かを見出せるならばと僕は思う。
だけれども実際は走るという行為は、
僕に何かを授けてくれる事はない様だ。
朝早く走って朝露の匂いを嗅いだり、
夜半に走って暗がりに怯えたり。
ふと目に留まるモノはあるけれど、
各々に意味はない。
ただ風景として存在するのみである。
何だかそっけなく聞こえるけれど、
僕はまるで取り憑かれた様に、
脆弱な二本の脚を繰り返し前に押し出すだけだ。


今日は定番の玉川上水を走った。
家から三鷹駅を往復すると約10㎞。
信号も少なく車の往来もあまりない静かなコースで気に入っている。
時折ある土の路面も刺激があって好きだ。
だいたいルートの性質は頭に入っているから、
その日の自分の調子を測るのにも活用出来る。
どうやらゴールデンウイークで走り込んでいるわりには、
脚の状態も良好のようだ。
気づけば、
もう5月になった。
少し前まで僕を愉しませてくれた川沿い桜も散り、
新緑は日増しに緑を増しているのが分かる。
厳しくなった日差しを避けるように、
自然と心は木陰の方へと向くのも致し方ないだろう。
なんだか、
この暑さが懐かしい。
僕がランニングを始めたのは、
夏の手前6月だった。
その日も暑かったと記憶している。
あれから、
もうすぐ1年が経つ。
1年というのは長いようで短く、
それでいてやはり長い。


今の僕の練習での平均的なペースは、
1kmあたり5分10秒程度。
10000mのレースであれば4分30秒で走る。
ネットで45分のタイムだ。
ちなみに、
自分を卑下するでもなく客観的に評価して、
これは素人のジョガーにとって、
平凡かそれ以下の記録と言える。
しかし、
知って欲しい。
1年前の僕は、
10000mを辛うじて1時間切るぐらいにしか走れなかった。
半年で10分は速くなったのだ。
一応。


ところがどっこい。
これは僕にランナーとしての才がある訳ではない事も、
同時に認めなければならないだろう。
誰しも真面目なランナー(不真面目では駄目だ。)なら、
始めた当初は走る度にタイムが縮んでいく実感が持てるはずだ。
ランニングは、
走り続けた日数に比例してスキルアップする。
それにタイムと相関して距離も伸びる。
僕も当初は5km走れば満足だったのが、
今では10km.15km.20kmと走っても苦でなくなった。
自分の実力が、
良くも悪くも手に取る様に分かるのだ。
“自らの能力をセルフジャッジしやすい。”
これは多くのスポーツと比べても、
ランニングが顕著であるのは間違いないだろう。


僕の現状のレベルは、
ハーフマラソンという段階にある。
そして約1年という短い期間ながら、
振り返ると思うのだ。
今の僕は、
多くの部分であの時と違う僕だと。
もちろん全く変わったとは言わない。
ある程度だ。
分かりやすく例を挙げよう。
食生活を気にしたり(お酒は今も飲むが)、
数日走らないと気持ち悪くなる自分を、
1年前に僕は想像出来ない。
朝の5時に起きて仕事前に10km走る僕を、
1年前に僕は信じられない。
僕にも知らない僕がいて、
ランニングはそれを教えてくれたのだ。


話は振り出しに戻るが、
ランニングが僕に精神的な何かをもたらした事はない。
白状すれば僕は密かに期待していた。
走る事で人として成長し、
素敵な大人になった自分を。
だけど残念ながら、
精神的な成長は今のところ見つけることが出来ない。
それでもランニングというスポーツに限っては、
少しだけマシになった自分を知る事が出来た。
走るスピードも距離もマシになった。
それを自覚している。
そして今僕は、
ランニングに健康になる以外の何かしらの有益性を持たせるべく、
ランニング流の自己評価法を試みているのだ。
なんだか厄介だけれども、
たぶん必要なのだと信じて。
何もせず漠然と毎日を過ごしていると、
自分自身の今を知る事はない。
というか知ろうとしない。
ランニングには何の意味もないけれど、
『僕って今どうよ?』と考えさせてくれたのだ。
あえて言うならば。


では、
僕の今はどうなのだろう。
まずはジョガーとしての僕。
ハーフマラソンの目標タイムは、
1時間50分を切る事だ。
これは僕の今の貧弱な脚には、
適当な目標であるはずである。
適度に困難だけれども、
全く無理とまでは言えない具合だ。
そうなんだ。
ジョガーとしての自分自身は、
体が答えてくれるから分かりやすい。
一方で私生活における問題となると、
途端に難しくなってしまう。
当たり前だけど。
だから自問する。
人生において今の自分は、
どのくらいの位置にいるのであろうか?
5km地点か?
20km地点か?
まさかそれ以上ではあるまい。
レースでは、
数えきれないランナーを抜くし、
それ以上のランナーに抜かれる。
きっと日々生きている中でも、
多くの人達と抜きつ抜かれつを繰り返していくのだろう。
ただどれくらい??
正直分からない。
ネガティブになってしまうと、
ただただ生きる事が苦しくなってしまいそうだ。
走るのも勿論苦しい。
でも残りがあと何kmか分かるぶん、
マシかもしれない。
人生は、
あとどれくらい残されているかは分からないから、
輪をかけて苦しく感じる。
そうだ。
そうに違いない。


ランニングを通して自分を見つめ直したけれど、
やっぱり分からなかった。
僕は人生の過渡期にいるのか、
それはもっと先なのか。
大きな決断を迫られている様にも、
実は何も変わらない様にも感じられる。
いずれにせよ苦しい。
分かったのはそれだけだ。
苦しいと言えば村上春樹は、
マラソンと生きる事を、
こう関連付けている。

『「苦しい」というのは、
こういうスポーツにとっては前提条件みたいなものである。
もし苦痛というものがそこに関与しなかったら、
いったい誰がわざわざトライアスロンやらフル・マラソンなんていう、
手間と時間のかかるスポーツに挑むだろう?
苦しいからこそ、
その苦しさを通過していくことをあえて求めるからこそ、
自分が生きているという確かな実感を、
少なくともその一端を、
僕らはその過程に見いだすことができるのだ。』


走る事によって自己認識を深め、
人生とランに共通する苦しさを見いだす。
これが今回の小説を読んだ上で、
自分が辿り着いた答えだ。
結局は、
何も分かってはいないのだけど。。。
ただ苦しいのは当然と腹をくくって、
ラン同様に前への歩を進めるしかない。
ジョガーとしての自分を知るようには上手くいかずとも、
生きていく上で自分を知ろうと努力するのは有益だ。
そして最後に。
人してジョガーとして心がけたいと思う。
この先、
どれだけ苦しい道が続くかは分からないが、
自分が今まで走ってきた道を忘れてはならないと。
過ぎ去るせよ、
折り返し戻って来るにせよ…だ。


ハーフマラソンのレースは来週の土曜日。
果たして記録更新は成し得るか。
そして走ったその先に何が待っているのだろう。
何はともあれだ。
Have a good time!
良いレースにしよう!
そう心に決めている。 
Category * BOOK
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Sat
2012.05.05
16:44
 
サッカーが消える日

舞台は2030年の近未来。
世界が度重なる不祥事に伴いサッカーを禁止して20年が経っていた。
みながサッカーの熱狂を忘れかけてきた中、
スポーツジャーナリストであるアレッサンドロは、
一流スポーツ紙クロナケ・スポルティーヴェに、
サッカー禁止20周年を記念した特集を任される。
過去サッカーに携わった多くの人間と接する事で、
次第にアレの中でサッカーに対する渇望が芽生えていく。
古くはブラジルの英雄ガリンシャ、
さらにはカンナバーロやサネッティなど実在する選手を交えながら、
なぜサッカーが破滅の道に至ったか、
そして本当にサッカーは必要なのかを、
現代サッカーに警鐘を鳴らしながら検証した作品。


まず本書を小説と呼ぶのが適切かは疑問に思う。
確かに舞台はサッカーが禁止された2030年という、
極めて架空の世界である。
つまりフィクション。
しかしそうでありながら扱われる内容は、
ほとんどが事実に基づいたノンフィクションだ。
例えばブラジルで国民の歓喜と評されたガリンシャの数奇な人生を辿ることで、
サッカーがもたらす光と影を映し出す。
カンナバーロやガットゥーゾのチャリティー活動や、
ネドヴェドのイデオロギーを超えた才能を紹介する。
さらにはナチス政権下で行われた伝説の試合、
ドイツVSウクライナの悲劇を取りあげている。
こういった具合にエピソードの数々は極めてリアルであり、
ちょっとしたサッカーの歴史とも言えるのだ。
小説として期待してたならば、
それは肩透かしにあう事間違いなしなのである。
しかし個人的にはサッカーを愛する人間として、
それぞれのエピソードを興味深く読んだ。
政治や宗教がサッカーと深く結びつく事で起こった悲劇。
前述したドイツVSウクライナの話は衝撃的だ。
ウクライナといってもナチス政権下で逃げ続けていたディナモキエフの選手達。
彼らが自らの命を絶ってでも貫いたサッカーへの情熱は、
とりわけ心を揺さぶるものであったし、
この事実を僕等サッカーファンは胸に刻み続けなくてはならないと感じた。


本書で筆者が伝えたい事は、
現代サッカーの過度な商業主義、
繰り返される不祥事や暴力沙汰に対して、
彼自身が感じている危機感なのであろう。
特にイタリアサッカーの凋落ぶりは、
遠く日本からでも顕著だ。
ユヴェントスのセリエB降格措置という、
前代未聞の事態を生んだ八百長騒動や、
フーリガンによる治安悪化。
サッカー好きなイタリア人として、
我慢が出来ないのは仕方が無いだろう。
私が幼少期だった頃のセリエAは、
絶対に世界最高のリーグであったし、
プレーも選手も誠に華やかであった。
極端に言ってしまえば、
本書はイタリアサッカーへの嘆きとも捉えられるかもしれない。


そういったイタリア人的な悲壮感に比べれば、
訳者も語っているが日本のサッカーは恵まれていると言える。
カルチョの国よりサッカー後進国の日本が恵まれているなんて信じ難いが、
それが現実であると思う。
著者は一度Jリーグを観て欲しい。
確かに経済的に困窮したクラブも多く、
リーグ全体の改善点も見えるかもしれない。
しかし安全に情熱的にサッカーを愛しむ空間が、
日本のリーグには存在する。
週末の試合には地元の家族がやってきてサッカー観戦を楽しんでいる。
アウェイチームにも敬意を払い、
試合後も安全に帰れる。
物語でイタリアの伝説的ストライカー・ジジ・リーバの言葉が印象深い。

「かつてサッカーには“感動の空間”がありました。
そのことを理解していた人は、
決してお金のことばかりを考えませんでした。
彼らにとって大切なものは、
“ユニホームであり、町であり、サポーター”
だったのです。」


Jリーグには、
彼の言う大切なものが残っているのかもしれない。
これは僕らの誇りだ。
サッカーを禁止なんかにする前に、
もっと僕らの国を知って欲しい。
僕らのサッカーに対する想いを。 
Category * BOOK
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Thu
2012.05.03
12:50
 
起終点駅 ターミナル

化粧品会社華清堂で働く敏腕OL笹野真理子は、
角田吾朗という謎の男から
「竹原基樹の納骨式に出席してほしい」という手紙を受け取る。
竹原は以前、
真理子との深い仲を破談にし、
独り故郷の北海道へと戻っていった男…。
<かたちのないもの>
大手新聞社に入社した新米記者の山岸里和。
セクハラをしても悪びれない上司に辟易しながらも、
日々躓きながら奮闘している。
そんな最中に偶然であった落ちぶれた釣り人。
密漁を犯しながらも、
悠々自適に生きる初老の男性を通して、
里和は何を知り何を悟るのか…。
<海鳥の行方>
とある事情から国選弁護しか引き受けない事を誓った鷲田完治。
ありふれた覚醒剤使用事件で椎名敦子という女の弁護を請け負う。
滞りなく裁判は終わったのだが、
その後敦子が再び鷲田のもとに訪れ、
逃走中の恋人を助けて欲しいと懇願される。
<起終点駅>
などなど、
全六編のショートストーリーが、
北海道を広大な土地を通して語られる。
彼等彼女等の起終点駅 とは?
生きる事の難しさが、
独特の柔らかなタッチで綴られている。


北海道の美しさや厳しさを背景に語られているのは、
誰にでも起こりうる孤独である。
大手化粧品メーカーで出世街道を進む笹野真理子は、
恋人竹原への未練を、
仕事への情熱に変え孤独を隠す。
新米記者の里和も、
なかなか評価されぬ仕事ぶりに対して悩み、
次第に恋人や自らの日常を失いつつある。
そしてそれぞれに対峙する、
恋人達や出会った人々も、
どこかに傷を負い孤独を抱えている。
それは劇的ながらも、
読者誰もが共感出来る孤独だ。
この小説が心に沁みるのは、
きっと皆が心に秘める寂しさが書かれているからであろう。


例えば、
海辺に住む老婆や、
晩年に若い作家と過ごし後に孤独を選んだ女流詩人、
妻子と別れ弁護士の時だけしか自分を表現出来ない男などは、
自らの意図で孤独を選んだ人間だ。
逆に敏腕OLや新米記者、
故郷を捨てた元ホステスなどは、
迫り来る故郷に怯えている。
そして、
それぞれの孤独が、
多くの人が絡む事で、
微妙に変化していくのだ。
<たたかいにやぶれて咲けよ>というエピソードで、
若手作家が老詩人との蜜月を書いた小説を書き上げるシーンがあるのだが、
その中にこんな一文がある。

「リツさんと僕は、
ふたりだけどひとりだった。
ひとりだけれど、
ふたりだった」


孤独とは決してひとりとは限らないのだと感じた。
どんな人でも決してひとりでは生きていけない。
しかし生きる上では、
最終的に自分自身しかいないのだと。
そしてそれでも人は誰かを想わざるには生きていけないのだと。


僕自身に重ね合わせても、
孤独に対しての恐怖は消えない。
日々の仕事や環境に忙殺されがちな僕等の年代は、
過去の関係が稀薄になるのに怯え、
今ある存在が失われるのではないかと恐れる。
もう結婚など出来ないのはないか、
薄れゆく人間関係から社会に取り残されていくのではないか、
仕事ばかりに気を取られるうちに本当の幸せを逃しているのではないか!?
落ち込んだ時などに、
そんな事を考えるのは、
決して僕だけではないだろう。
作品の中の人達も、
そういった不安を抱えている。
でも気づかない。
独りであったも周りには多くの人がいる事に。
だから余計に不安になって、
心を乱しているのだ。
どうせ人生の終着点は、
自分自身で決めなくてはならないのだから、
孤独と向き合うべきなのかもしれない。
そうする事で、
周りの温かさが見えてくる。 
Category * BOOK
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