サッカー(ヴェルディ)以外の日常を綴ります。
http://cycun1944.blog.fc2.com/
--
--.--.--
--:--
 
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
 
編集[管理者用] このページのトップへ

 

Wed
2012.07.04
17:45
 
黒烏龍茶


広告で飯を食っている立場上、
その表現には細心の注意を払っている。
初校・再校・色校といった社内校正はもちろん、
メーカー校正も徹底させている。
新聞出稿であれば、
厳しさに差はあれど媒体社の校閲も加わる。
何重もの監視を経て、
不当表示・優良誤認のない広告物となる様に努力している。
社内的にも個人的にも、
法令に遵守した制作姿勢を、
徹底しているつもりだ。
なんせ無店舗販売の通販は、
言葉のみがエンドユーザーと繋がる術である。
対面販売以上に真摯になるべきだし、
言葉でお客様を欺く事は絶対にあってはならない。
それが故意でないにせよ。


その上で、
疑問に感じざるを得ない事がある。
我が国における広告審査は果たして妥当なのか!?
先日消費者庁がサントリー食品インターナショナルに対して、
ある改善要望書を送った。
当該商品は、
特定保健用食品「黒烏龍茶」。
指摘された媒体は主に波の広告と思われる。
改善要望の内容は、
アニメの主人公が「脂肪にドーン」とひとさし指を突き出す場面と、
「食べながら脂肪対策」というテロップ。
偏った食生活を助長する恐れがあり不適切と指摘を受けたのだ。
乱暴な解釈をすれば、
これを飲めばジャンクフードを食べても問題ないと誤解するという事。
この部分が一種の優良誤認の広告とされたのだ。
ちなみに黒烏龍茶は所謂トクホ。
消費者庁から健康の維持や促進に効果が認められている飲料である。
具体的には、
食後の血中脂質の上昇を抑えるという表現が認可されている様だ。
今回の騒動は、
許可された表現の範囲を逸脱しているかが争点である。
さてあのCMの表現は、
トクホの枠を超えているのか否か…?


その答えは残念ながらハッキリしている。
消費者庁が言うなら妥当。
サントリー側に反論の余地は現実問題ほとんどないはずである。
恐らくもうすぐCM自体見ることはなくなるであろう。
客観的な事実の虚偽でない場合、
つまり前後から推測される状況から、
実際に優れているのと感じるか否かといった感覚には、
残念ながら明確な尺度は存在しない。
消費者が読んで勘違いをしてしまった時点で、
ともすれば優良誤認に該当してしまうのである。
つまりは受け手の感覚次第で、
不当な広告になってしまうという訳。
当然、
それでは人によってバイアスが生じる。
そして誤差があるからこそ、
公的機関が代表して審査しているのだ。
民間がやれば、
絶対に不公平感が生じる。
国がジャッジすればある程度はフェアになるのだろう。
よって、
その制度自体には異論はない。
ただ広告主として表現の可否を任せている以上、
納得出来るような裁定をして欲しいのだ。
今回最も言いたいのは、
その一言に限る。


個人的な見解では、
黒烏龍茶のCMが、
偏った食生活を助長するとは思えない。
偏った食事を好む人に対して、
是正を脅迫している様には感じたが、
偏った食事を食べてもOKとまでは感じられなかったからだ。
明確な根拠はなく率直に感じた印象ではあるが…。
だからハッキリ言って、
僕の中ではセーフの広告表現。
サントリーには、
同情の念を禁じ得ない。


そもそも広告というのは、
商品やサービス・存在を、
受け手に評価してもらう手段である。
限られたスペースで、
これこれはこんなに優れていると、
必死に知恵を絞って伝えるからこそ、
有益なツールになるのだ。
その熱意は時に人々を魅力する。
文化の範疇に広告が位置づけられるのは、
そういった側面があるからだろう。
もちろん事実でない事は謳ってはいけないが、
法令順守の枠の中で、
気持ちを込めて完成したクリエイティブは、
絶対に守られるべきだと思う。
それは広告自体の存在意義に関わる、
非常に重要な事ではないだろうか。
つまり何が言いたいかと言えば、
現代の広告業界は、
消費者を守る表現規制のみが過剰に厳格化され、
広告で認めらるべき表現の自由が阻害されていると感じているのだ。
まるでレバ刺しの規制の様ではないか。
後から問題にならぬよう、
本来規制されるべきブラックな広告の枠よりも、
かなり大幅に…、
グレーを超えてシロの広告まで規制してしまっているのだ。


実際に広告の現場に携わる人間として、
極めて理不尽な審査を受ける場合がある。
これは公民問わず。
だいたい国家機関や媒体者の指導は、
こちら側の主張は受け入れられない。
目をつけられたら、
それはもう諦めるしかないのだ。
ただ納得いかないモノは納得出来ない。
特に腹立たしいのは、
審査基準が消費者保護という観点ではない場合。
前述のレバ刺しに例えた通りだ。
審査する人間が、
ラクするための判断基準が多すぎるとも思う。
例えばの話。
画一的に使用前・使用後の写真を禁ずる媒体がある。
これには以前より虚偽の写真が使われる事が多発したり、
健食や美容用品の様に使用する個人によって差が生じてしまうという問題が背景にある。
がしかし、
それに当てはまらない商材もある。
ウチの会社では薄毛を隠す粉末があるのだが、
そんなモノは黒い粉を頭皮に振りかけているだけ。
まさに客観的事実だ。
嘘はないし健食のように個人差もない。
それでも他と同様に使用前・使用後の表現は許されない。
なぜなら使用前・使用後はすべてNGだから。
コピーの表現にも露骨なケースがある。
最上級表示は基本的に駄目なのであるが、
それに付随して「高」の表現にも規制がかかった。
高品質や高性能、
あるいは高音質など。
高という漢字が含まれたワードは全部駄目。
高品質や高音質が、
優良誤認をさせる言葉に聞こえるだろうか!?
僕はそれが優良誤認と感じてしまう感性こそ疑ってしまう。
さらに高性能を良性能、
高品質を良品質と勝手にアカを入れてくる媒体もある。
そんな変な日本語を使うほうが、
よっぽど消費者を惑わしていないだろうか。


僕は強く思う。
自分達のリスク回避ばかりの広告規制は、
我が国の広告の質を落し続ける。
昭和時代は多くの素晴らしいコピーライターやデザイナーがいた。
海外の広告賞も獲得してきた。
そんな素晴らしい日本の広告が、
自らのショボイ審査で衰退してしまうのが悔しい。
黒烏龍茶はあくまで一例だ。
今一度良い広告と何かを考えて欲しい。
消費庁も公正取引委員会も市の衛生課も、
テレビ局も新聞社も広告代理店も、
もちろん受け手も作り手も。
今のままでは発展はないと思う。
僕は素敵な広告がたくさんある世の中を望んでいる。 
スポンサーサイト
Category * 小話
Trackback(0) Comment(0) 編集[管理者用] このページのトップへ

 

Mon
2012.06.11
17:29
 
乳頭温泉


旅行へ出かけた。
お決まりの旅行記を書いても芸がないから、
今回はタイトル通り、
「旅の記憶」をテーマに話そうと思う。
またまた実のない話になるだろう。
事前に断っておく。
それで許される訳ではないだろうけど。


旅した場所は秋田県乳頭温泉郷。
高校の山岳部以来、
実に15年ぶりに訪れた。
山間を慣れないドライブ。
昔訪れた時は、
たぶん徒歩だったか。
最初はそれくらいの記憶しかなく、
当時の事は朧げにしか憶えていなかった。
もう忘れた。
そう思い込んでいた。
ところが実際に現場へと足を踏み入れると、
忘れたはずの記憶が蘇るのだから不思議である。
もちろん多くは他愛もない内容だ。
思い出したとて、
とりたてて語るまでもない。
この川を見たことあるなとか、
あいつとあいつがここで喧嘩したんだっけとか、
その程度である。
でも大切なのは思い出した内容ではない。
蘇った記憶が意外と鮮度を保っていた事に僕は驚いたのだ。
それはまるで記憶を保管する大きな蔵に、
長い間大切にしまわれていた様。
あるいは旧友と再会したみたいな、
なんだか特別な再会に思えた。
「旅の記憶」。
僕は今その事について考えている。


ひなびた温泉宿に佇み、
高校時代の記憶と再会して思った。
旅路とは、
旅を終えた後にも続いているのではないのかと。
こうやって15年ぶりに旅の記憶が戻り、
初めて気づくのである。
些細な思い出ではあったけれど、
それは15年経った今でも確かに旅の匂いがしていた。


つまりは各々の記憶の蔵に、
旅の想い出は保管されているのだろう。
それは普段は影を潜めていて、
ふとした時に表面に現れるのだ。
旅特有の匂いを伴って。
だとするならば、
僕と一緒に旅した人の記憶の蔵には、
少なからず僕に関する事がしまわれるのではないか。
わざわざ東北の山奥で僕は、
いったい何を考えているのだろう。
それでも急に振り出した雨を避ける術がないのと同じ様に、
そんな夢想から離れる事が出来なくなった。


考えてしまった。
いま旅を共にしている人の中には、
今日の僕が記憶されるのだと。
想像してしまった。
時が経ち何かのキッカケで当人が今日を思い出した時、
記憶の中の僕がひどく情けなかったらどうしよう。
…それは避けたい。
身近な人ならより一層避けたい。
不安定なiPhoneの電波状況を眺める。
どんよりした灰色の雲が僕を覆う。
よくよく思い返してみると、
昔から他人の視線を気にするタイプであった。
僕は女々しい人間なのだ。
しかし言い訳をするならば、
時を経ても残酷なまでに美しく鮮度を保っている旅の記憶が、
僕を執拗に女々しくしているのかもしれない。


相変わらず雨は降ったり止んだりを繰り返している。
東北も梅雨入りをしたのだろうか。
ちょっとやそっとで運転技術が向上する訳もなく、
それでいて僕は僕自身を装う術を知らない。
旅の最中だからなおの事。
僕は15年ぶり訪れた乳頭温泉郷で、
高校時代の記憶を呼び覚ました。
もしかしたら同じように、
15年前の裸の僕を高校時代の仲間が思い出すかもしれない。
その時の僕は、
たいそう情けなくて間抜けである可能性も否定できない。
やっぱりそれは恥ずかしい。
でも僕は救いを見つけた。
僕は今でも高校時代の部員と会い続けている。
会い続けているうちは、
あの日の僕を僕は覆せる。
会い続けているうちは、
変わった僕を見せる事が出来る。
救いは会い続けて変われる事。
そして…
変わったのならば、
また旅に誘うまでだ。
はぁ。。。
変な事を考えた。
どこまで伝わるのやら。


さて。
今回は雨の多い旅だった。
でも不快には思わなかった。
いつかまた思い出したい記憶になったから。 
Category * 小話
Trackback(0) Comment(0) 編集[管理者用] このページのトップへ

 

Mon
2012.05.21
17:48
 
DSC_0254.jpg
▲撮影した金環日食。Nikon D90 TAMRON 28-300㎜ PRO ND100000フィルター使用 1/125 F8 ISO Lo1


2012年5月21日 AM7:30。
僕は金環日食の撮影の為、
井の頭公園の広場でカメラを構えている。
周りには日食グラスを手に珍しい太陽を眺める人が数人。
気まぐれな太陽は、
雲の切れ間を行き交いながらも、
どうにかその姿を留めている。
少しずつではあるけれども、
確かに進んでいく日蝕の様子をファインダー越しに眺めながら、
僕は今日という日をいつまで憶えていられるのだろうかと自問している。


金環日食とは大雑把に言うと、
月が太陽の正面を通る事で、
大きなリング状になる現象を指す。
僕自身も後から知ったのだが、
皆既日食では太陽が完全に隠されるのに対し、
金環日食は太陽が完全に隠されることはない。
そのため辺りが極端に暗くなる事もないし、
皆既日食の様に外枠にコロナが出現する事もない。
オレンジ色の指輪の様な円が作られるのが大きな特徴だ。
そしてこれが天文的に非常に稀であり、
日本国内で起こる金環日食としては1987年の沖縄金環日食以来25年ぶりらしい。
さらに次に広範囲で観察できるのは300年後とあって、
メディアを中心に大きな話題を呼んでいるのだ。


ちなみに金環日食は、
その特異な現象から数々の逸話を残している。
1183年。
平氏と木曽源氏が戦った水島の合戦中に金環日食が起こった。
源氏側は欠けていく太陽に恐れをなし混乱したのに対し、
平家は日食が起こることを事前に知っており戦いを有利に進めて勝利したと言い伝えられている。
昔は不安や恐れの対象とされたのが国内外で多く見られるパターンの様だ。
その一方で現代社会では違った見方もされる。
DREAMS COME TRUEの「時間旅行」という楽曲の中で、
次のような歌詞がある。

「指輪をくれる? ひとつだけ 2012年の金環食まで待ってるから そうよ 太陽の指輪」

ご覧のように金環日食を指輪に例えた名曲だ。
ドリカムファンからしてみれば22年前の作品で歌われたエピソードが、
四半世紀近く経ちようやく実現するのである。
恐らく万感の思いなのであろう。
僕の身近にも熱狂的なドリカムファンがいる。
実は金環日食を知ったのもその人物からであった。
歴史的な逸話とドリカムの記念日。
そう考えると良きにつけ悪きにつけ、
金環日食は人々の心を魅了する現象の様に思う。
天文的なイベントというだけでなく、
みな心に寄り添うからこそ個人的にも興味が沸いていた。


さて。
いよいよだ。
部分食から次第に金環食へと導かれていく。
万人が空を見上げる姿は、
詩的にも、
あるいは滑稽にも写る。
今この瞬間、
どれだけの人達が同じ太陽を眺めているのだろうか。
…その時が来ると、
周りから感嘆の声が漏れ始めた。
そして若いカップルも親子も、
僕に絡んできたうるさいおじいさんまでも一様に黙りこくる。
僕はと言えば、
ひとりでやはり黙る。
おおよそ5分くらいであろうか。
国民が見守る中で、
世紀の天体ショーは静かに終わった。


金環日食。
僕の感想を言おう。
それは限りなく金の“輪っか”であった。
僕にとっては、
不安を駆られる不気味な現象でもなく、
大空に輝くロマンチックなエンゲージリングにも成りえなかった。
それこそ無機的に、
“金の輪っか”は“金の輪っか”以上の意味を持たなかったのである。
だからこそ余計に思う。
僕は2012年5月21日を永遠に記憶に留めておけるであろうか。
頭上に輝く大きな金の輪と同様に、
僕の心に霞む今の想いすらも忘れてしまう日が来るのであろうか。
それって何だか寂しくないか!?
だから…。
僕は今日という日を写真に残す。
“金の輪っか”と“今の僕”を写真に焼き付ける。
 
テーマ * 日記 ジャンル * 日記
Category * 小話
Trackback(0) Comment(0) 編集[管理者用] このページのトップへ

 

Mon
2012.04.09
17:09
 
DSC_1030.jpg


都内では、
例年より少し遅く桜が見頃を迎えている。
昨年は震災の影響があり、
お花見が自粛ムードだった。
そんな反動からか、
なんとく今年は例年より賑わっている様に映る。
考えてみたら、
お花見を自粛するという選択自体からして、
なんとも日本人らしい。
大変に律儀であるし、
感傷的な国民感情かと。
しかし、
震災から1年が過ぎ、
花見を待ちわびた列島の姿を見ると、
やはり僕ら日本人は桜がお花見が好きなんなだなと思わずにはいられないのである。


日本人と桜と結びつける文献は少なくない。
桜はパッと咲きパッと散るという、
諸行無常の感性だったりが起因しているというのが一般的であろう。
それもそれで納得なのであるが、
では個人単位で桜に対しての儚さを感じているかと言えば、
別にそうとも限らないのではと意地悪に考えてしまう。
僕自身、
桜が咲けば気分が高揚するのは確かだ。
どこか桜の名所に繰り出して、
昼間からビールを飲みながらなんてマジ最高。
しかし申し訳ないけれど、
そこに儚さとかいう感傷は滅多に出てこない。
去年を除き。


ではビールがあればどんな花でもマジ最高かと問われたら、
そうでもないのだから不思議である。
日本人である僕の中のどこかに、
桜に対する特異な感情があるのは確かなのだが、
明確にそれを説明する事は出来ない。
よくは分からないのだが、
桜でしか感じる事が出来ない何かがある。


今年は中目黒から目黒川を散策してみた。
歩くのにも大変な混みようである。
土地柄なのか、
ビールよりスパークリングワインを飲んでいる人が多い。
頭にネクタイを締めた人より、
洒落た外人さんが騒いでいたりする。
行き交う人も売り子も中目黒感たっぷり。
ちなみに写真も中目黒感を重要視した。(川を写しただけという噂もあるけれど…。)
でも中目黒感たっぷりで、
飲むお酒や集う人種は違えども、
桜だけはしっかりと桜であった。
眺めると自然に和んでしまう。
そんな風に歩きながら和みながら、
なんで桜だけがこんなに僕らの心の琴線に触れるのかと、
先ほどの様にツラツラと思索していたのだ。
変な奴でしょう!?


でもって変人は思う。
もしかしたら、
本当は桜自身には特定の意味なんてないのではないか。
震災でツラかった去年も、
それが少しだけ癒えて穏やかな気持ちの今年も、
桜は僕ら日本人の気持ちを代弁しているかの様に咲き誇っている。
どんな気持ちにもスッと染まれる唯一の花だからこそ、
愛され続けているのかな。
まぁ桜に類まれなるポリバレント資質がある所以は、
やっぱり定かでない。
それこそ日本人のDNAに何かしら深く関係しているのかもしれないなどと、
結局は適当な話になってくるのである。
ともあれ、
今年の桜はとっても良い感じだった。
願わくば来年も再来年もこの先ずっと、
穏やかで幸せな気持ちで、
豪快に咲く桜の花を眺めていたいのだ。
もう自粛ムードは勘弁。
美味い酒と気の合う仲間を囲んで、
春だねと陽気に騒ぐ方が桜も嬉しいと思うから。 
Category * 小話
Trackback(0) Comment(0) 編集[管理者用] このページのトップへ

 

Mon
2012.03.12
16:14
 
東急デパート

どこからともなくストリートミュージシャンの歌が聞こえ、
小さな居酒屋から笑い声が漏れる。
吉祥寺はいつだってそんな街である。
今日もまた、
何百回も歩いたサンロードを抜ける。
色々なお店が入れ替わっているはずなのに、
ここの空気は全く変わらない。
サンロード側も公園側も、
その他の細かな路地に至るまで、
気取らない穏やかさがあるのが、
吉祥寺の愛すべき魅力だ。
そう…。
吉祥寺に訪れた事のある人であれば、
デンと構える東急デパートに気づくだろう。
ずっと昔からいる吉祥寺の番人みたいな奴だ。
僕がまだ子供だった頃、
誕生日になると必ず両親と共に東急デパートへ行った。
6階で欲しかったオモチャを買ってもらい、
最上階のレストランでお昼を食べるのが、
とても贅沢に思えて楽しみだった。
今も僕の脳裏には、
洋食屋さんから望む吉祥寺の町並みがある。
周囲には全然高いビルがなくて、
雑然とした風景が広がっている。
考えてみればお気に入りの洋食屋さんにも、
随分と行っていない。
それでも遠慮がちに食べたハンバーグの味だけが、
今も記憶に鮮明なのだから、
不思議なものだ。
久しぶりに行ってみようかな。


そんな訳で僕と吉祥寺は、
もう随分と長い付き合いに。
なんと20年以上になる。
今ではデパートの食堂に両親と行くこともなくなり、
むしろ窓から見えていた雑然とした風景の中の方に行き来する様になった。
言い方を変えると、
オモチャ売場より美味しいお酒が飲める場所に居座っているという事。
僕と吉祥寺。
きっと長い付き合いの中で、
係わり合い方も変わったという事なのだろう。
それでも何故だか、
ずっとこの場所にたむろしている。
僕も吉祥寺も変わったけれど、
いつでもユルく迎えてくれる街だからだろうか。
街並みが変わっても、
そんな空気だけは変わらないからだろうか。


待ち合わせの場所へ少し早足で向かう。
相変わらず目の前には、
デンと構える東急デパートがいる。
僕がいくら年を取っても、
変わらない吉祥寺の空気がいる。
さて今夜はどこで飲もう。
この前通りすがりで見つけたビストロにしようか。
今月何度目かのオクワ酒場か。
ヴェルディが負けたから安居酒屋か。
どちらにしても吉祥寺なら安心だ。
この街とこの街にいる人達が好きだから。
吉祥寺本町2丁目。
きっと今僕は、
いるべき場所に立っている。
何だか少しだけ分かった気がした。
僕はこの街から離れられない。
いや離れたくない。 
Category * 小話
Trackback(0) Comment(0) 編集[管理者用] このページのトップへ

 

 
Copyright © 2017 新きっと鴨はシャイ, all rights reserved.
 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。